精密医療電脳書

分子標的薬 コンパニオン診断 肺がん ウイルス 人類観察

がん薬物療法における精密医療の役割

奈良先端科学技術大学院大学バイオサイエンス領域 がん生物学シリーズ講義補助資料。

がん薬物療法における遺伝子情報の役割について説明します。固形がんでは、肺がんと乳がんで遺伝子情報が治療方針決定に重要です。

 

がん薬物療法

がんは進行するに従って早期がんから大きくなって、限局がんになりますが、早期がんと限局がんは手術あるいは放射線療法で腫瘍を取り除きます(根治治療)。このときに再発防止の為薬物療法を行います(補助療法)。腫瘍が原発組織にとどまっている限局がんは手術等で根治可能ですが、転移するともはや根治治療はできなくなります(進行がん)。進行がんの場合は保存治療として薬物療法を行います(図1)。

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図1.がんの治療。

がんの治療薬には3種類あります。第一は化学療法剤で、細胞分裂を直接障害します。核酸アナログやチュブリン重合阻害剤などがあります。第二は分子標的薬で主に細胞内情報伝達系を阻害する薬剤です。第三は免疫療法剤です。免疫系細胞表面にはPD-1、がん細胞表面にはPD-L1があり、PD-1とPD-L1が結合すると免役チェックポイントが働き、免疫系細胞はがん細胞を攻撃しなくなります。免疫療法剤は抗PD-1抗体/抗PD-L1抗体で、免役チェックポイントを障害して免疫系細胞はがん細胞を攻撃するようにします。

 

精密医療とゲノム医療

細胞内情報伝達系のタンパク質は遺伝子異常により活性化して、がん化を促進することが多く、分子標的薬はこのようなタンパク質を特異的に阻害する薬剤です。このようなケースではがん組織の遺伝子異常を指標にして薬剤に感受性のある患者を選択します。これが精密医療 precision medicine です。精密医療が最も進んでいるのは肺がんです。また、乳がんも遺伝子情報を含めた分子情報が、治療方針決定に重要です。これに対して消化器系のがんは化学療法剤中心で、分子標的薬は限定的です。

precision-medicine.jp

一方ゲノム医療ですが、日本以外では精密医療と似た意味で使われることもありますが、日本では厚生労働省により厳密に決められています。これは大型の遺伝子検査パネル(シスメックスのものは114個、中外製薬のものは324個)により多数の遺伝子異常を調べて治療方針を決定する医療です。いろいろな分野の専門家を集めた会議(エキスパートパネル)で遺伝子情報と患者の臨床情報を検討して個々の患者の治療方針を決定します。対象患者は、進行がんで標準治療が効かなくなった進行がんと標準治療が確立していないがん(希少がん)に限られています。現在、11ヶ所のがんゲノム医療中核拠点病院と31ヶ所のがんゲノム医療拠点病院でのみゲノム医療を受けることができます。

 

肺がんの精密医療

肺がんの補助療法は化学療法剤が中心で、分子標的薬と免疫療法剤は進行がんで用いられます。

細胞外からの液性因子の刺激により受容体チロシンキナーゼが活性化し、細胞内情報伝達系RAS-RAF-MAPK系を通して細胞増殖を促進します(図2)。

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図2.肺がんに関連する細胞内情報伝達系と分子標的薬の作用点。Kurtzeborn, K. et al. Int J Mol Sci 2019 20:1779より。

多くの肺がんでは受容体チロシンキナーゼが遺伝子異常で活性化しています。現在EGFR, ALK, ROS1, METに対する阻害剤が開発されており、それぞれの遺伝子異常を持つ患者に投与されます。BRAFのみが例外でRAS-RAF-MAPK系のタンパク質です。肺がんの薬剤選択のアルゴリズムは図3のようになります。

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図3.肺がんの薬剤選択アルゴリズム。

 

乳がんの精密医療

ホルモン受容体(エストロゲン及びプロゲステロン)陽性乳がんにはエストロゲンにより増殖促進するので、この情報伝達経路の阻害が有効です。これが内分泌療法で、ホルモン受容体をブロックする薬剤(タモキシフェン)、エストロゲンの生合成を阻害する薬剤(アロマターゼ阻害剤)、また閉経前の女性では視床下部—脳下垂体系で卵巣の女性ホルモン分泌が制御されるのでLH-RHのブロックする薬剤(LH-RHアゴニスト)があります(図4)。

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図4.女性ホルモンの生理学と乳がん内分泌療法剤の作用点。

またホルモン受容体とは独立してEGFRファミリーのメンバーであるHER2遺伝子が増幅している乳がんがあります。HER2陽性乳がんには、抗HER2抗体(トラズズマブ)が奏功します。乳がんの薬物療法はホルモン受容体の陽性陰性と、HER2遺伝子増幅の妖精陰性の組み合わせで決まります(図5)。

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図5.乳がんの薬剤選択アルゴリズム。

日本での精密医療は此処までですが、米国では遺伝子発現パターンで化学療法剤の適応を決める検査と乳がんの遺伝素因(BRCA1/2の変異)を調べる検査があります。米国ではこれらの遺伝子情報も治療方針決定に使います。