精密医療電脳書

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精密医療 〜 遺伝子情報による治療法の選択

新しい医療コンセプト

精密医療(英語ではprecision medicine)は、精密な医療という意味ではなく、オバマ元米国大統領が2015年の一般教書演説で提唱した新しい医療コンセプトです。これまでの治療法は平均的な患者に対してつくられていますが、精密医療は遺伝子、環境、ライフスタイルなど個人ごとの違いを考慮した予防や治療法のことです。オバマ元大統領の精密医療イニシアチブ(precision medicine initiative)では次の2つの医学的目標を掲げています。

・より良いがんの治療法の開発と提供。

・100万人またはそれ以上のボランティアからなる全米研究コホートの創設:

参加者のカルテ情報、遺伝子情報、代謝物質情報、体内の微生物情報、生活環境・生活習慣データ、行動データを含む様々な情報の集積。がんだけではなく、他の疾患の精密医療も推進する。

現時点では、精密医療は遺伝子情報に基づいて治療法を選択するがん医療(図1)であり、肺がんと乳がんについては日常診療になっています。

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図1.精密医療。遺伝子情報にもとづいて治療薬を選択する。

なお似た言葉として個別化医療(personalized medicine)とゲノム医療がありますが、個別化医療は精密医療とほぼ同義です。ゲノム医療は、日本国内では厚生労働省が特別に定義していますので、注意が必要です。ゲノム医療は別稿で紹介するとして、本稿では、がんの精密医療について説明しましょう。

 

遺伝子変異

ヒトの細胞の中には染色体があり、染色体のDNAに人の体をつくる情報が入っています。ヒトのDNA全体(ゲノムといいます)に格納されている情報量は775MB(CD1枚が650MB)で、約2万個の遺伝子が含まれています。DNAの中に格納されている遺伝子情報が活性化するためには、まずRNAコピーができる。次にRNAの情報をリボゾームが読み取り、蛋白質をつくります(図2)。蛋白質が細胞や人体のなかで活動します。

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図2.DNA→RNA→蛋白質。Understanding Gene Testing、NIH (1996)より。

DNAはアデニン(A)、シトシン(C)、グアニン(G)、チミン(T)という4つの化学物質(塩基)が並んでおり(ヒトゲノム全体では30億塩基)、この塩基の配列が情報になります(図3左)。変異とは、配列中の塩基が別の塩基に置換されることであり(図3右)、遺伝病やがんの原因になります。

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図3.DNAの構造(左)と変異(右)。DNAは生体内では2重らせん構造をとっている。

卵子あるいは精子にあって全部の細胞に変異がある場合(生殖細胞変異)と体細胞が増殖するときに入る場合(体細胞変異)があります(図4)。生殖細胞変異は親から子に伝わる病気、すなわち遺伝病の原因ですが、体細胞変異はがんの原因になります。

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図4.生殖細胞変異と体細胞変異。Understanding Gene Testing、NIH (1996)より。

研究者によって見解がことなりますが、約100個の遺伝子ががん化に関与していると考えられています。国立がん研究センターによるリストを図5にあげておきます。

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図5.がんに関連する遺伝子(国立がん研究センターによる)。遺伝子名はアルファベットと数字で表記する。

 

抗がん剤の種類

抗がん剤は次の3種類に分類されます。

従来の抗がん剤(化学療法剤);細胞毒で細胞増殖を阻害します。正常細胞も障害するので強い副作用があります。

分子標的薬;がん細胞にのみ発現している蛋白質を標的とする薬剤です。がん細胞を選択的に攻撃するため化学療法剤よりも副作用が少ないという特徴があります(図6)。

免疫療法剤(免疫チェックポイント阻害剤);免疫チェックポイントという免疫抑制メカニズムを阻害して、人体の免疫力を活性化してがん細胞を破壊します。副作用がないわけではなく、免疫細胞によるいろいろな副作用がおこります。

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図6.従来の抗がん剤と分子標的薬。

どの抗がん剤でも効果のある患者は最多でも約半数で、効果のある患者を見つける方法があればがん医療を大きく向上させることができます。化学療法剤と免疫チェックポイント阻害剤はあまり有効な方法がありませんが、分子標的薬は標的蛋白質の遺伝子情報が役立つことが多く、精密医療の実現につながっています。

 

EGFR チロシンキナーゼ阻害剤 EGFR-TKI

精密医療の代表例は上皮増殖因子受容体(EGFR)とその分子標的薬であるEGFRチロシンキナーゼ阻害剤(EGFR-TKI)です。EGFR-TKIはEGFRの働きを阻害する分子標的薬で進行性肺がんに使う薬剤です。2002年に最初のEGFR-TKIであるイレッサが登場したときには、それまでの抗がん剤にはない劇的な治療効果があり、分子標的薬のパワーに皆驚愕しました(図7)。

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図7.イレッサの効果。治療前左肺全体を占めていた肺がんが6週間の治療で消失している。大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)呼吸器外科提供。

EGFRは細胞表面上にある蛋白質で上皮増殖因子(EGF)が結合すると活性化し細胞増殖を促進します(図8)。EGFRの遺伝子に変異が起こってEGFR蛋白質のロイシン(Leu)がアルギニン(Arg)にかわるとEGFの結合なしに常に細胞増殖を促進するようになり、細胞ががん化します。EGFR-TKIは変異陽性EGFRの働きを阻害することにより、がん細胞を破壊します。

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図8.EGFRの構造と変異。

問題点は、すべての肺がんがEGFR変異陽性ではなく、EGFR-TKIはEGFR変異陽性の肺がんにしか効果がないことです(図9)。そのため実際の診療ではまずEGFRの遺伝子配列を調べ変異陽性患者にのみEGFR-TKIを投与し、変異陰性患者にはそれ以外の治療(化学療法剤)を行います。

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図9.EGFR変異の有無によるイレッサの効果の違い。変異陽性の患者のみ生存期間が長くなる。大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)呼吸器外科提供。

 

肺がんの精密医療

EGFR-TKI以外に遺伝子変異に対する分子標的薬が開発されてきました。現時点(2020年6月)では、EGFR, ALK, ROS1, BRAFの4つの遺伝子の変異検査の後、それぞれの遺伝子の変異陽性患者には対応する薬剤を投与し、変異陰性の患者には化学療法剤を投与します(図10)。

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図10.肺がんの精密医療。タグリッソはイレッサの後継薬。

PCRで遺伝子一つ一つ検査する方法が主流でしたが、最近では次世代シークエンサーという新しい技術を使って4つの遺伝子を一度に配列解析する検査法も使われています。4つの遺伝子に加えMET, RETの2つの遺伝子に対する薬剤も近々(多分1年以内)追加される予定です。METについては医師研究者向け解説を掲載しています(「MET阻害剤」)。

 

肺がんと乳がんで精密医療が進んでおり、遺伝子情報に基づく精密な薬剤選択が日常診療で行われます。消化器系がんの場合は、一部では精密医療が行われていますが、化学療法剤が中心です。私は精密医療を実現するためのツール、すなわち遺伝子情報を解析する方法を開発しており(「研究の概要」)、その成果についても順次紹介するつもりです。