精密医療電脳書

分子標的薬 コンパニオン診断 肺がん ウイルス 人類観察

乳癌の精密医療:薬物療法のアルゴリズム

精密医療は本来「遺伝子情報に基づく治療法の選択」と定義されているが、遺伝子だけでなく分子診断全般に拡張すれば、乳癌の薬物療法のスキームも精密医療と云える。その治療薬選択のアルゴリズムについて説明する。なお、ここでは乳癌の生物学的特性に焦点を当てて説明しており、実際の診療は臨床情報を総合して実施されている点に注意が必要である。肺癌と比較すると複雑である。

 

薬物療法のアルゴリズム:肺癌

進行性非小細胞肺癌では遺伝子異常による精密医療がすでに確立している。現時点での治療薬選択を図1に示す。RET融合遺伝子に対する阻害剤のみ米国ののみの承認で日本国内では未承認である。対象遺伝子はBRAF以外すべて受容体チロシンキナーゼで、薬剤はその阻害剤である。遺伝子異常の重複は稀であるため、図1のアルゴリズムで一義的に治療法が決まる。

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図1.非小細胞肺癌の薬物療法選択アルゴリズム。

 

薬物療法のアルゴリズム:乳癌

乳癌の精密医療は少し複雑で、基本アルゴリズム以外に、化学療法回避のため低リスク早期乳癌を同定するゲノム検査と、遺伝素因検査がある。なお、日本では化学療法回避のゲノム検査は承認されておらず、遺伝素因検査も限定的である。

 

基本アルゴリズム

早期乳癌も転移性・再発性乳癌も基本的には同じアルゴリズムで薬剤選択を行う。まず乳癌組織のホルモン受容体、すなわちエストロゲン受容体(estrogen receptr, ER)とプロゲステロン受容体(progesterone receptor, PgR)の発現を検査(免疫染色)する。さらにHER2過剰発現の有無を検査してHER2陽性である場合は抗HER2療法を行う。検査は免疫染色で蛋白質の過剰発現、あるいはin situ hybridization でHER2遺伝子の増幅を検出する。このアルゴリズムによる4つのグループそれぞれについて治療法が確立している(図2)。

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図2.乳癌の薬物療法選択アルゴリズム。
内分泌療法

ホルモン受容体陽性例については内分泌療法を行う。分子標的薬のコンセプト以前から使われている薬剤であるため、分子標的薬に分類されることはないが、作用機序は明らかにホルモン受容体あるいはホルモン合成過程を標的にした治療薬群である。より詳しい解説は「乳癌内分泌療法:抗エストロゲン薬、LH-RHアゴニスト、アロマターゼ阻害剤」を参照されたい。

選択的エストロゲン受容体モジュレーター(selective estrogen receptor modulator, SERM):エストロゲン受容体への作用が組織によって異なる化合物である。すなわち骨や脂質代謝ではエストロゲン様作用により骨折防止効果を示し、子宮や乳房では抗エストロゲン作用を示し乳がんの発症リスクを抑える。タモキシフェン tamoxifen(商品名 例えばノルバデックス Nolvadex)が代表的なSERMである。

アロマターゼ阻害剤(aromatase inhibitor):エストロゲン合成過程で、アンドロゲンをエストロゲンへ変換させるアロマターゼを阻害する薬剤である。閉経後の乳癌患者に用いる。

LH-RHアゴニスト:卵巣を刺激する脳の下垂体ホルモンLH-RHを阻害することで、エストロゲンの分泌を減らし、乳がん細胞の増殖を止める。リュープロレリン Leuprorelin(商品名 リュープリン Leuprolide)、ゴセレリンGoserelin(商品名ゾラデックス Zoladex)がある。閉経前の乳癌患者に用いる。

抗HER2療法

トラスズマブと化学療法の併用が標準的である。より詳しい解説は「HER2 変異陽性乳癌治療薬:トラスズマブ、ラパチニブ、T-DM1」を参照されたい。

化学療法

ホルモン受容体陰性、すなわちER(-), PgR(-)、かつHER2陰性の乳癌はtriple negative というカテゴリーになり、最も悪性度が高い。化学療法を行う。なお、化学療法は悪性度の低いホルモン受容体陽性HER2陰性早期乳癌では回避できる。日本での判断基準は以下のとおりである。

 

化学療法

追加

内分泌療法

単独

組織学的
グレード
3 1
増殖指標Ki67 高い 低い
ER・PgR陽性
割合
低い 高い
腋窩リンパ節
転移
4個以上 0個
腫瘍周囲
脈管浸潤
広汎 ない
病理学的
浸潤径
.>5cm <=2cm
患者の意向 希望あり 希望なし

転移性再発乳癌については、他の分子標的薬、CDK4/6阻害剤mTORC1阻害剤の適応がある。 

 

化学療法の回避

乳癌では、乳癌組織の遺伝子発現パターンと悪性度の間には強い相関があり、この相関は他の因子とは独立した予後因子である。この相関関係を利用して化学療法の適応の判断を補助できる。主要な診断システムにはOncotype-DXとMammaPrint がある。Oncotype-DXはFDAの承認はないが、米国では非常にポピュラーな検査で学会での評価も高い。しかし規制機関が医療経済的メリットがない、という判断を下している国が多い。日本国内でも未承認であり、今の所承認に向けた動きはない。

・Oncotype-DX;21個の遺伝子の発現パターンから算出される乳癌再発スコア(breast cancer recurrence score)により、化学療法の回避可能かどうかは判定する。対象患者はホルモン受容体陽性HER2陰性早期乳癌である。乳癌再発スコアの閾値はリンパ節転移の有無など臨床所見によって異なる。学会ガイドラインに判定基準が掲載されている。

MammaPrint;70個の遺伝子の発現パターンから算出されるスコアで高リスク群と低リスク群に分類する。オリジナルのMINDACT試験の対象患者は早期乳癌である。実際の使用に関しては学会ガイドラインに判定基準が掲載されている。

 

遺伝素因

BRCA1/2は乳癌卵巣癌の遺伝素因で、約4%はBRCA1/2変異陽性である。遺伝素因が明らかになれば予防の点でメリットがあるため、米国では広く行われている。日本では乳癌卵巣癌既往者に限り2020年4月に保険収載された。なお、BRCA1/2検査はPARP阻害剤のコンパニオン診断としても承認されている。なお、アンジェリーナ・ジョリーで有名になった予防的乳房切除術は、生命延長効果はないことが判明している。