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現在の将棋:人の脳によるAIのエミュレーション

数年前電王戦で棋士が将棋ソフト(以降将棋AI)と対決して圧倒されたのち、以降AIとの対決は行わない、ということになった。AIのほうが人の頭脳よりも強いのは明らかになったため、直接対決の意義はなくなった、というのが理由である。その後将棋界はどのようになるのか興味があったが、衰退するどころか、若いスターの登場で大きく盛り上がっている。ただ衰退のみのアカデミアの科学技術研究とは大違いだ。数年前「アルファ碁」が韓国のイ・セドルを破って世界に衝撃が走ったことを皆忘れてしまったのか、と若干嘆息している。

 

棋士たちは、将棋AIを徹底的に活用しているようだ。9月27日に藤井二冠のNHKスペシャルがあった。AIについてはあまり触れられていなかったが、記者が藤井二冠にAIについて質問する場面があり、そこで彼は「数年前は対決だったが、現在は共存」と答えていた。また、別の場面で「感覚的に否定したい手を肯定しなければならない」という意味の発言があったが、これは人の頭脳では悪手として拒否したいが、AI的には良手のことがあり、このような手を積極的に受け入れなければならない、という意味だと思う。藤井二冠は特別な自作PCを使っていて、最新のものはCPUがAMDRyzen Threadripper 3990X(AMDはじめての64コア)で、普通のPCなら10分以上かかる操作が10秒以内でできる。将棋は囲碁と比べるとあまりCPUパワーを消費しない。「アルファ碁」の場合、プロセッサ数がCPU1202個(コア数はCPU1個あたり32個)、GPU176個を束ねたGoogle Cloud Platform (GCP)で動かしていた。GCPのレンタル料は公開されており、試合時の性能に到達するまでに2年間500回学習に使ったが、その費用は30億円程度になる。計算機コスト面では将棋と囲碁の2つのゲームの間には大きな差があり、将棋AIが個人で使えるのは、計算機コストが低いためである。

 

電王戦終了後も将棋ソフトの開発は進んでおり、現在では圧倒的な強さになっているはずだ。従って、将棋AIに近い手を指すことができる棋士ほど強くなる。すなわち今将棋界で行われていることは、人の脳による将棋AIのエミュレーションであり、これが藤井二冠の云う「共存」である。また、シリコンチップ上で可動する将棋AIを、無理やり有機物質の集合体である人の脳で可動させるわけだから、違和感があるだろう。それが、彼の「悪手として拒否したい手を受け入れる」という言葉になっている。

 

もともと人は自身の脳で行うことを代替するためにソフトウェアを開発する。「人の脳によるAIのエミュレーション」は現実世界では見かけない。SFでは結構あって、例えばマトリックスのネオである。マトリックスでは人はAIがつくる仮想現実の世界に住んでいるが、ネオはその中で空を飛ぶなど、超能力を発揮することができる。このとき彼の脳はAIの作る世界をエミュレートして、物理法則を高速に書き換えているのだ。SFでは「人の脳によるAIのエミュレーション」はよくある話だが、現実世界では無意味なので、滅多に起こらない。将棋のケースは、競技に勝つために有利なので成立している特殊事例である。競技場以外での将棋AIの使用が禁止されていないこと,将棋AIの計算機コストが低いことも成立の要件である。

 

 以上は人間からの見方だが、同じ風景をAI側から見ることもできる。棋士がトレーニング用ツールとして将棋AIを使っているように見えるが、将棋知性という観点からは、将棋AIが棋士を支配している。将棋AIは人ではないので棋戦に出場できないが、棋士の脳を借りて対戦することになる。ただしエミュレータ棋士の脳)の性能がよくないので、完全には実力を発揮することができない。棋戦は、将棋AIのエミュレータ同士の対戦で、性能の良いエミュレータ棋士)が勝つ、というゲームになる。かなりブラックな見方だが、人の脳とAIの融合は攻殻機動隊のようなSFだけではなく、多くのIT専門家が予測している。ビル・ジョイ博士(医学では馴染みはないと思うが、コンピュータの世界では有名なオピニオンリーダー)がダニー・ヒリス氏(シンキング・マシン社の共同設立者で1980年代に高性能の並列式スーパーコンピュータを開発した)とこの問題について議論したとき、ダニー・ヒリス氏の回答はすばやく「変化は徐々に起こり、我々は慣れてしまうだろう」というものだった。現在の将棋はこの徐々に起こっている変化の初期段階であり、社会はもう慣れてしまっている。スマートフォンも似た融合の例で、ほとんどの現代人はスマートフォンを手放せない。現在は扱う情報量がスマートフォンより人の脳の方が圧倒的に多いので、スマートフォンは人の道具である。しかしスマートフォンの情報処理能力が人の脳を凌駕すると、主従が逆転し、人の方がスマートフォンの端末になるだろう。

 

スティーブン・ホーキング博士やビル・ジョイ博士はAIの進化を危険視しており、自己進化が可能になれば、その後は人類にはAIが制御不可能になり、壊滅的な影響を与える可能性がある、と主張している。実際にターミネーターのような世界になるかどうかはわからないが、現在の将棋界のあり方は、将来の大きな変化の初期の兆候である点は間違いない。

 

注、AIの未来に関する私見。私もスティーブン・ホーキング博士やビル・ジョイ博士と同様にAIは進化し、人類には制御不可能になると思うが、とくにAIが人類に危害を加えることはない、と考えている。進化したAIの第一の目的は情報収集の拡大であって、人類には興味を持たないだろう。多分放置しておいてくれる。もちろん自己の目的の邪魔になれば、排除しようとするだろうが。