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イザベル・ファウスト バッハ無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータ全曲演奏

Johann Sebastian Bach by Raoul Dufy

クラシック音楽に於いては楽譜には限られた情報しか記載されていないため、演奏者の方で情報補完して再現することになる。そのため現実の演奏は演奏者によって大きく異なる。大抵の場合、その多様性を楽しむ事ができるが、私の場合、バッハの無伴奏とブラームスのヴァイオリンソナタは、多様性許容度が極めて狭く、特定の演奏者のものしか聴かない:バッハ無伴奏ヴァイオリンは1970年代のミルスタイン、無伴奏チェロは1930年代のカザルス、ブラームスはチョン・キョンファ。とくにブラームスは不思議で、識者の推薦する演奏はほとんど良いとは思えず、比較的目立たないチョン・キョンファがとても良かった。またこれまでの経験から、室内楽は録音と実演の差は原則としてはなく、録音でも同じemotional responseを得られる。実演でもコンサートホールによっては良くないこともあるので(アムステルダムのコンセルトヘボウ小ホールはラジオのような音だった)、室内楽で実演と録音を区別する意味はあまりない。

 

先日ベートーヴェンの四重奏曲を聴いた青山音楽記念館バロックザールで、イザベル・ファウストのバッハ無伴奏のコンサートがあると知って、チケットを購入した。チケット購入は結構恐ろしい体験だった。発売開始と同時にネットで申し込もうとしたが、中々アクセスできない。アクセスできたと思ったら売約済みだ。そうする間に席はどんどん埋まっていく。まわりがすべて埋まった領域で一つ取り残された席があり、ようやく予約することができた。約5分で全て売り切れたと思う。聴衆は年寄りが主だが、こういう時はガッツで席を取りに来るので、注意が必要だ。

barocksaal.com

 

バッハ無伴奏は自宅で聴けるので、ストラディバリウスがコンサートホールでどのように響くのか、それを見極める(聴き極める?)のがこの演奏会の目的だ。

 

2日にわたって行われたコンサートで、一日目6月15日は無伴奏ソナタ1番、パルティータ1番、ソナタ3番の3曲。ミルスタインの演奏のイメージが頭の中に強く残っているせいか、イザベル・ファウストが何を弾いているのかわからない間に、ソナタとパルティータ2曲が終わってしまった。ソナタ3番になってバッハの音楽ではなくヴァイオリンの音に関心を向けることで、ようやくこの演奏会が自分にとってどういうものなのかわかった。本来の目的がコンサートホールにおけるストラディバリウスの見極めであり、その通り音楽を愉しめば良い、バッハにこだわる必要はない。頭を切り替えた途端、イザベル・ファウストの音楽に快感を感じるようになった。

 

クラシック音楽のような複雑な音楽は、単純に聴くだけでは楽しむことはできず、ある程度の脳内処理が必要で、音楽を聴いているとき意識下で行っている。脳内処理の仕方を誤っているとうまくいかない。今回のケースはその一例で、バッハではなくヴァイオリンの音そのものに焦点を絞ることにより、音楽を楽しむことができるようになった。

イザベル・ファウストのヴァイオリンはスリーピング・ビューティという名のストラディバリウスだ。その音は美しい、というよりも、むしろ強さを感じさせるものだ。バロックザールで聴くその音は極めて大きく、小編成の室内管弦楽団程の音がした。ストラディバリウスの筐体で増幅された音は、さらにバロックザールで増幅され、私達の耳の届く。バッハの音楽を媒介にして、この2つの増幅過程を感じることができた。

 

2日目6月16日は無伴奏パルティータ3番、ソナタ2番、パルティータ2番の3曲。1日目とは違って最初の音から演奏会を大いに楽しむことができた。私にとっては、バッハの音楽の深層に触れる演奏会ではなく、ストラディバリウスの音を「浴びる」演奏会だった。先に室内楽では実演と録音を区別する意味はあまりない、と書いたが、今回のケースはヴァイオリンの筐体とホールという空間内での音の増幅を体感する経験だったので、ちょっと録音では再現できないなあ、と考えた。

 

満足して帰宅して、ミルスタインの演奏を聴いて、改めてバッハは素晴らしい、と思った。やはりイザベル・ファウストの演奏会ではバッハの音楽ではなく、ストラディバリウスの音を聴いていた、と改めて実感した。