精密医療電脳書

分子標的薬 コンパニオン診断 肺がん ウイルス 人類観察

製薬業界のビジネスモデルは崩壊している

新型コロナウイルスのパンデミック以降米国臨床腫瘍学会年会の演題数が激減した。これは参加者の行動様式の変化が第一だろうが、製薬企業のアクティビティにも変化があるのではないか、と考えてきた。また、抗がん剤の分野では進歩が速く、臨床開発が早急に終了、最終的に使われる薬剤も少数に落ち着いてしまう傾向が見られる。例えば免疫チェックポイント阻害剤の臨床試験の結果が現れだしたのは2010年代になってからだが、この10年間で膨大な数の臨床試験が行われ大体適応範囲が見えてきた感がある。薬剤についても抗PD-1抗体はペンブロリズマブ、抗PD-1抗体はアテゾリズマブの2剤を中心に少数の薬剤に落ち着きつつある。分子標的薬も大体開発が終了し、残っている標的遺伝子は発生頻度が低く、収益性の観点から新薬の開発は難しい状況にある。他の開発領域は深くは知らないが、全体的に新薬の開発が難しくなっているように感じる。ケルビン・ストットKelvin Stott氏の最近の分析は、このような現在の状況をうまく説明している。

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この解析では、製薬業界全体の財務データから、内部収益率を推定している。その結果では内部収益率は年々低下していて2020年には0%になっている。すなわち研究開発投資をすでに回収できなくなっている、という結論である。

 

内部収益率(IRR, internal retern rate)とは、今後の事業によってどれだけ収益が生まれる可能性があるのかを推定するための指標であり、正確には「投資によって得られる将来のキャッシュフローの現在価値と、投資額の現在価値が等しくなる割引率」、あるいは「(投資額)=(将来得られるお金を現在の価値に換算した金額)となるような割引率」である。ここで割引率とは「将来のお金の価値を現在の価値に換算するときの利率」である。現在価値とn年後の将来価値の換算式は、割引率をrとすると、次のようになる。


現在価値=将来価値/(1+r)^n

 

製薬業界全体の内部収益率の傾向を推測するために、いくつかの解析が行われてきたが、パラメータを多く含む複雑な分析になっている。ストット氏は、それぞれの年は開発過程のちょうど中間点にあたる、それぞれの年の投資によって得られるキャッシュフローは売上のピーク時になる、という簡単なモデルを立てた。創薬特許の有効期間は20年であり、開発期間は大体14年である。特許が切れるまでに売上はピークに達すると仮定すると、ストット氏のモデルでは、開発の中間点は特許取得から8年目、それから13年後に売上がピークに達することになる。上の割引率の計算式からx年の内部収益率IRR(x) は、

R&D(x) = [(EBIT(x+c) + R&D(x+c))]/(1 + IRR(x))

IRR(x) = [ (EBIT(x+c) + R&D(x+c)) / R&D(x) ]^(1/c) - 1

ここでR&D(x)はx年の開発投資額、EBIT(x+c) はx+c年の収益(EBIT, Earnings Before Interest, Taxes)である。通常の開発投資は収益から出るので、x+c年の収益は開発投資額を加算したものになっている。そして上記の仮定より、c=13である。IRR推定値をプロットすると図1のようになる。

図1.製薬業界における研究開発投資回収の年次変化。縦軸、内部収益率IRR;横軸、時間(年)。赤、ストットのIRR推定値;赤点線、ストットの推定値の外挿線;青、 Deloitte 2016によるIRR推定値;黒、BCG 2016によるIRR推定値。

内部収益率は経時的に減少し、2017年には資金の調達コスト(株式への配当や融資に対する利息の支払い)を下回り、2020年にはゼロになっている。すでに製薬業界は現在のR&Dの方式では儲からなくなっているのだ。創薬は他の業界のR&Dとは異なり、成功確率が非常に低いため、減少傾向が続くと、内部収益率は最低値−100%になりうる。

創薬が容易なもの、そして対象患者が多いものから開発が進むので、これらの分野が開拓されつくされると、創薬が困難なもの、あるいは発症頻度が少ない希少疾患が残ってしまう(図2)。感染症や心血管障害はすでに終了し、がんや糖尿病は一応現在の技術で開発可能な創薬は終わりつつあるが、がんの完全治療薬や糖尿病の合併症など開発困難なものは残っている。アルツハイマー病などの神経疾患は、対象患者数は多いが創薬が困難なものの代表例だ。希少疾患の中には、開発が比較的容易なものもあるが(例えば遺伝性疾患の一部)、通常患者数が少ないため研究開発投資の回収は難しい。このように収益が容易にあがるものから開発され、難しく収益の上がらないものが残る現象を、経済学で収穫逓減の法則the law of diminishing returnsといい、一般的な経済法則のひとつだ。

図2.疾患の研究開発機会。縦軸、開発のコスト・リスク・難しさ。下に行くほどスト・リスク・難しさともに上昇する;横軸、新薬の必要性(unmet medical needs)。右に行くほど低くなる。

ストット氏の分析結果は成程、と符合の行くことが多い。研究分野である抗がん剤では、肺癌分子標的薬ではALK融合遺伝子の頻度が収益が上がるギリギリの頻度、だと聴いていた。NTRAKやRETは肺癌での発生頻度は低いが、他の癌腫でも発生するので、患者数自体はそれなりに多い。やはり以降それより希少な遺伝子変異に対する分子標的薬は現れてないし、現れる兆しがない。抗がん剤開発が限界に来ていることは、ずっと感じていた。また武田薬品がアイルランドの製薬大手シャイアーを760億ポンド(6兆8000億円)で買収したときは、シャイアーが希少疾患中心の会社だったので、大丈夫7日、と思ったものだが、このような背景を鑑みると、他に選択肢がなかったとも言える。

Evaluate Pharmaによる製薬業界の利益の予測は図3のとおりである。

図3.製薬業界の利益予測。縦軸、利益;横軸、時間(年)。ピンク、R&Dのコスト;緑、収益;紺、R&Dのコスト、黒線、全売上、赤点線,IRR予測(ストットによる)。

現在が売上のピークで、10年後には半分になる、という予測である。パンデミックで変化があるかもしれないが、現在のビジネスモデルを変える徴候は今のところないので、製薬業界の大幅な縮小は避けられないのではないか。会社自体は業種を変えることで生き残るとは思うが。