昨年から古い友人とコンサートへ行く機会が増えた。オーケストラのコンサート(主にフェスティバルホールでの大阪フィルハーモニー交響楽団のコンサート)は自宅のシステムの音響とは異なる。長い間自宅の音楽再生システムに満足していたが、音楽再生向上の余地があるかもしれないと考えて、自宅のシステムの改良を試みている。本稿ではシステムの中心になっているタイムドメイン・スピーカーについてまとめた。
タイムドメイン・スピーカーとの遭遇
オーディオシステムを評価するパラメータはいくつかあるが、人の聴感との関連性は不明だ。またパラメータは評価に客観性を持たせるために必要だが、自分自身のためのシステムの評価に客観性は必要なく、主観的な評価でよい。私の場合30代前半英国ケンブリッジで4年半研究していた期間の音楽体験が内部標準になっている:この期間平均すると10日に1回コンサートかオペラを聴いていた。ロンドンでのオーケストラ・コンサートとオペラが多く、室内楽は少ない。聴いた公演数は少ないが、ウィーン国立歌劇場の印象は強烈で、音楽体験の核になっている。
英国滞在以前は日本で普通の再生装置を使ってクラシック音楽を聴いていた。しかし英国から帰国後は嗜好は一変、再生音楽を聴いても短時間で聴く意欲がなくなってしまう。実演に耳と脳が適応してしまい、再生装置による歪みを受け付けなくなっているようだった。結果的に音楽が生活から消滅していった。
この状況は2004年のタイムドメイン・スピーカーとの遭遇で一変する。当時勤務していた奈良先端科学技術大学院大学の裏手に高山サイエンスプラザがある。大学財団の施設で、ベンチャー企業へのスペース提供も行っている。たまたまなにかの用で訪れた際、スピーカーをつくっているベンチャーを見つけた。それが株式会社タイムドメインで、その音を聴いて仰天した。
タイムドメイン・スピーカーYoshii9の由来
タイムドメイン・スピーカーYoshii9は由井啓之氏が発明したスピーカーで、CDやLPに録音された音源を忠実に再生する。もちろんクラシックやジャズなど音楽再生が目的だが、工学的目標はあくまで音源の忠実再生だ。最初の訪問の印象は強烈だが、最も強く記憶に残っているのは「ガラスが割れる音」だ。目の前でガラスが割れた、という錯覚に陥った。小川が流れる音も、自身が川辺を歩いているようだった。クラシック音楽も色々聴かしてもらったが、実演と同じなので驚いた。再生音楽の問題点の一つは、続けて聴いていると疲れてくることだ。これはデジタル(LPならばアナログ)データを音に逆変換する際に混入した人工的歪みを脳内で補正するため、と思われる。実演で聴き疲れすることは滅多にない。タイムドメイン・スピーカーはいくら聴いても聴き疲れすることはない。
実演は当たり外れがあり、今日はよかった、と感じるのは、10回に1回程度だ。その点、再生音楽の場合は、適切なCDを選べば、聴く側の調子が悪くない限り、外れることはない。そして現在では聴くことができない過去の演奏を再現できる。20世紀の演奏家の多くは、現在では死滅したスタイルで演奏しているのでCDでしか聞けない。適切な再生装置を使えば、マリア・カラスを黄泉の国から蘇らせて歌わせることができるのだ。ただ適切な再生装置がない、あるいは高価すぎるのが、問題だった。この問題を解決したのが、タイムドメイン・スピーカーYoshii9である。
由井啓之氏は元オンキョーの技術者で、オンキョーでGS1(TIMEDOMAIN - 心のオーディオ 〜自然な音のスピーカー )という名スピーカーを開発した。GS1はタイムドメイン・スピーカー1号機というべきものだが、200万円と非常に高価だ。GS1と同じ性能があって普通の家庭でも購入できるスピーカーがYoshii9である。
Yoshii9の工学的特徴
Yoshii9は巧妙な工学的トリックで、スピーカーユニット由来の2次的な振動を物理的にシャットアウトする。
普通のスピーカーユニットは箱型のエンクロージャーの中に設置されている。電気信号によりスピーカーユニットが振動するとき電気信号による振動だけではなく、エンクロージャー内の反射音やエンクロージャーの振動の伝搬により原音が歪んでしまう(下図左)。Yoshii9のスピーカーユニットは仮想グラウンドと呼ばれている重い錘に上方に向けて設置されている(下図右)。エンクロージャーは円筒型で、スピーカーユニットはゲル状の素材で緩く支えている。錘の質量はスピーカーよりも遥かに大きいため、スピーカーが振動しても錘は振動しない。ゲル状の素材が振動を伝えないので円筒も振動しない。スピーカーが後方に向けて発する音は円筒を振動させることはなく、そのまま円筒の下方から排出される。そのため反射音がスピーカーの振動板に影響を与えることはない。スピーカーはあたかも空中に浮かんだ状態で、アンプからの電気信号による振動のみを上方へ発する。
箱型エンクロージャーでYoshii9と同じ性能を達成しようとすると、気の遠くなるような試行錯誤が必要で、そのため高価格になっているのだろう(由井氏もGS1のときは膨大な実験を行っている)。素晴らしいアイデアで、21世紀最大の発明はYoshii9だ、と考えている。
その他のタイムドメイン・スピーカー
タイムドメイン・スピーカーにはYoshii9以外にTimedomain MiniとTimedomain Lightがある。Yoshii9は家庭用、一世帯に一台という位置づけだが、MiniとLightは個人用のスピーカーだ。Yoshii9とは違い卵型のエンクロージャーを採用しているが、工学的工夫で余計な振動をシャットアウトして音源を忠実に再生する点は共通だ。特筆すべきはLightで、「奇跡のスピーカー」と云っていい。Yoshii9は優れたスピーカーだが、それなりに高価だ。しかしLightは5万円以下でこの音がでるのか、と驚いてしまう。ただ卓上での使用に限られる:小ボリュームでのニアフィールドリスニング専用だ。また使える音源はバイオリンなどの独奏、室内楽、歌唱に限られる。音が小さくてよければピアノ独奏や合唱もOKだが、オーケストラは小編成のものでも難しい。オペラはモーツァルトでぎりぎりつかえるかなあ、というところだ。しかし音源と聴き方を選べば、Yoshii9に匹敵する効果を得ることができる。
Yoshii9, Mini, Lightはオリジナルのラインアップだが、タイムドメイン社のホームページ(TIMEDOMAIN - オンラインストア Online Store)では新しい製品が掲載されている。また富士通テン(現在ではデンソーテン)のライセンス製品は昔から有名だが、聴いたことはない。