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オーケストラ実演と録音の乖離に関する考察

録音再生で自身の音楽に対する欲求はほぼ完全に満たされているため、コンサートに行く動機、必要性がなくなった。昨年までコンサートに行くことは殆どなかったが、今年になって昔の友人の誘いで再びコンサートにいくようになった。在阪のオーケストラのコンサートだが、録音とはかなり異なっていることに気がついた。

 

私が使っている再生装置はタイムドメイン社のYoshii9のTune Upバージョンだ。タイムドメインスピーカーは工学的工夫により原音を忠実に再生することを目標として設計されたスピーカーである。ガラスの割れる音や川の流れる音など、自然音は目前で起こっている、と錯覚するほど原音再生能力が高い。音楽再生のためにチューニングされたスピーカーではないが、使用目的は音楽再生(開発した由井氏はカール・リヒターが指揮するマタイ受難曲の再生が目的、と仰っていた)で、クラシック音楽は大抵満足できる。普通の再生システムでは原音が歪められて生理的不快感が起こり、コンサートのような体験はできない。タイムドメインスピーカーで完全な原音再生ができているとは考えていないが、生理的に不快な歪みがないためコンサートと同じように音楽が楽しめるのだ、と考えている。

 

タイムドメインスピーカーの中ではYoshii9が最も原音再生能力が高い。それでもフルオーケストラの再生は難しく、特殊改造を施したTune Upバージョンでやっと満足のできる再生が可能だった。1990年前後の4年半イギリスに滞在していて、平均10日に1度コンサートかオペラに行っていた。このときの記憶が内部標準になっていて、録音再生された音楽を評価する。Yoshii9 Tune Upではウィーンフィルとコンセルトヘボウでのコンセルトヘボウ以外は、オーケストラの音色もそれなりに再現できている。ところが、久しぶりにオーケストラのコンサートを聴いたとき、普段聴いているYoshii9 Tune Upのオーケストラ録音と大分違っていて、その原因は何だ、という疑問が湧いてきた。

 

私はCDコレクションを可逆圧縮してハードディスクに移してからMacBook Airを通してYoshii9 Tune Upで再生している。CDコレクションの8割のリッピングが終了しており、データ量は約500GBだ。大体オペラと声楽曲が4割、器楽曲が6割で、オーケストラ録音は器楽曲の半数程度、すなわち全体の3割、データ量で凡そ150GBというところだろう。このデータの中で在阪オーケストラのコンサートと同じ印象のものを探したが、アバド-ベルリン・フィルによるマーラーの交響曲6番が音響の感じが似ているかなあ、という程度だった、もちろんベルリン・フィルの音色は在阪オーケストラとは全く異なる。

 

一つは、私が好んで聴くオーケストラ録音がマルチマイク録音が多いせいかもしれない。オーケストラの録音方法は大別してワンポイントとマルチマイクがある。簡潔な説明がPCオーディオ実験室(優秀録音の検証~「DECCA」(1)(2))にある。PCオーディオ実験室で紹介されている定義では、ワンポイント録音は、

「一連の集音系が一つの音空間をできるだけ歪めずにそのまま取り込む録音方法とでも言えば良いでしょうか。もう少し厳密に言うならば、いくつかのマイクからなる集音系が、ある限られた空間領域にセットされていて、各音源から発せられた音の時間的同時性がある程度確保された収録方法です。」

となっており、タイムドメインスピーカーと同じく原音再生、とくに音空間の忠実再生を目標としている。その名の通りタイムドメインスピーカーは音の時間的同時性に重点をおいて開発されたスピーカーだ。これに対し普通の再生システムは左右のスピーカーから出る音の音圧の差で立体感をだそうとしており、原理的にワンポイント録音とは合わない。

ワンポイント録音で使用するマイクの数はデッカ方式(Decca Tree)で3本、フィリップス方式で4本である。これに対してマルチマイクは多数のマイクで拾った音源を編集作業により再構成する方式で、元の音空間の再現を目指してはいない。編集作業で実演とは全く違った演奏を作っている、と考えたほうが良いのかもしれない。優秀録音の検証~「DECCA」(2)で紹介されているエピソードは大変面白い。

マルチマイク録音は原音再生を目標としていないため、オーディオ開発者やマニアにはすこぶる評判が悪い。ドイツ・グラモフォンによるカラヤン-ベルリン・フィルの録音はマルチマイク録音の代表的なもので、由井氏は強く批判されていた。たしかにドイツ・グラモフォンによるカラヤン-ベルリン・フィルの録音は、他のオーケストラ録音と比べて音像の定位が悪い。ただ私にとっては録音再生過程での生理的に不快な歪みの除去が第一なので、空間再生は二の次だ。カラヤン-ベルリン・フィルは快適で、結果的に最もよく聴くオーケストラ録音になっている。

由井氏によると、アバド-シカゴ交響楽団の幻想交響曲はドイツ・グラモフォンが例外的にワンポイントで録音したもので、これは良い、ということだった。念のため聴いてみたが、大阪フィルのコンサートとは印象が全く異なる。オーケストラの音色だけでなく、空間再生にも疑問が残った。これは録音場所のシカゴシンフォニーホールの音響のせいかもしれない。コロナ流行前までは毎年出席するASCO年次総会のついでにシカゴ交響楽団を聴いていたが、ホールはデッドで、良いホールとはとても言えない。空間再生の印象が異なるのは、シカゴシンフォニーホールの音響が劣悪なせいかもしれない。

 

最近エルネスト・アンセルメの音源を購入した(エルネスト・アンセルメの芸術~ステレオ・レコーディングス 1954~1963)。アンセルメ-スイス・ロマンド管弦楽団のこれらの録音は、在阪オーケストラのコンサートに最も近い印象を受けた。録音方式はワンポイント(Decca Tree)で、録音場所はジュネーヴのヴィクトリアホールである。ヴィクトリアホールは音響効果の良いホールとして知られており、録音での音の定位、残響はフェスティバルホールの大阪フィルと似た印象だ。

 

私はベルリン・フィルを始めとして普通のオーケストラと違う独自の音色を持ったオーケストラの録音を普段聴いている。そのため、普通のオーケストラの音をコンサートで聴くと違和感が出てくるのだ、と思う。またマルチマイク方式の録音が多く、ホールトーンは現実のものからは変容しているのだろう。スイス・ロマンド管弦楽団の音色はニュートラルで、またワンポイント録音でヴィクトリアホールの音響を上手く捉えているため、フェスティバルホールの大阪フィルやいずみホールのいずみシンフォニエッタ大阪と似た印象を受けるのだろう。私が感じるオーケストラ実演と録音の乖離の原因はこのあたりではないか。