精密医療電脳書

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どの企業がグレイルを買収するだろうか?

次世代シーケンサーのトップメーカーであるイルミナ社のグレイル売却が決定した(Illumina to divest cancer test maker Grail after antitrust battles)。2024年第2四半期までに売却予定ということである。グレイルは次世代シーケンサーを使ったがん早期発見技術開発に特化した会社で、2016年にイルミナのスピンオフベンチャー問いして設立された。その後、研究成果が有望ということで、2021年にイルミナはグレイルを完全子会社化した。しかしながら、次世代シーケンサーのメーカーががん早期発見事業を行うことは、EUと米国公正取引委員会の両者から独占禁止法違反であると指摘され、法廷闘争の結果2023年12月17日にイルミナはグレイルの売却を決定した。このあたりの経緯はロイターの記事の資料でまとめられている(Rocky history of Illumina's Grail deal)。

 

ロイターが"Rocky history"と呼ぶようにグレイルは将来有望ながん早期発見技術を持っている、と一般的に思われている可能性は高い。しかしながら、現行のがん検診の有効性を鑑みると、新規早期発見法が成功する可能性は極めて低い。現行のがん検診の中で、推奨グレードA(明確な死亡率の改善)は子宮頸がんの2つの検査(細胞診とHPV検査)と大腸がんの便潜血のみだ(科学的根拠に基づくがん検診推進のページ)。社名グレイルGrailはキリストの最後の晩餐に用いられた盃のことで、アーサー王の円卓の騎士が困難な探索の旅の後ようやく発見できた、という伝説から、非常に困難な、手が届かない目標のたとえに使われる。

がん細胞は正常細胞が遺伝的に変化して発生するが、そのがん化の過程では複数の遺伝子異常が必要、と考えられており、その途中の段階、正常ではないががんでもない、という状態が存在する、と考えられている。また一旦がん化しても免疫系により除去されることも当然あり、がんと正常の境界というのは極めて曖昧なものである。従って、早期発見は曖昧なものに線を引くことになるので、一般的方法は原理的に不可能だ。

 

グレイルの早期発見技術については、Annals of Oncologyで報告されている。

Sensitive and specific multi-cancer detection and localization using methylation signatures in cell-free DNA

がん患者及び健常人の血中遊離DNAのバイサルファイトシークエンスでメチル化を調べて、そのパターンからがんか正常かを診断するものだ。機械学習を用いて分類を行うが、論文を読んだところ瑕疵はない。但し後ろ向き研究で前向き検証がないので、現時点では何とも言えない、有望かどうかも判定できない状況だ。2020年の論文だが、現在に至るまでその後の評価報告はでていない。多量のデータによる癌の分類は、2000年代前半に遺伝子発現プロファイルの応用で盛んに研究が行われた。しかし成功に至ったのは2つの乳がんの予後診断法、Oncotype-DXとMammaPrintのみである。有望な研究成果が一流誌に多数発表されたが、最終的な成果はvery poorだ。

少なくとも2つの原因はわかっている。一つは、論文では最終的に確立したアルゴリズムのみ記載するが、実際にはそのアルゴリズムに到達するまで複数の方法を試して、最適なものをえらぶことになる。この段階で統計学的多重性の問題が発生する。そのため最終的に選ばれたアルゴリズムが本当に性能が良かったのか、たまたまその時使ったデータセットで良い成績がでたのかわからないのだ。このプロセスは論文には書かないので、アルゴリズムの性能がたまたま良かっただけ、という可能性が残る。2つ目の原因だが、普通学習セットと検証セットの2つのデータセットは通常同じ機会に採取したデータを分割して使うのでデータセットの性質が似ている。そのため全く別のデータセットで検証すると性能が低くなる。このため他の臨床試験と同様、前向き検証がなければ真の性能はわからないが、未だ前向き検証は行われていない。

 

がん早期発見の原理的難しさ、多量データによる分類器の技術的ハードル、そして前向き試験の欠如、これらの要因を考えるとイルミナがグレイルの未来を確信して買収を行ったとは考えにくい。それでは何故買収したのか。たぶん出資者への利益還元のためだ。EUやFTCのアクションはカモフラージュだろう。グレイル設立のために20億ドルの資金が集められたが、買収金額はその4倍の80億ドル(正確には77億ドル)である。買収は2分の1はドルで、2分の1はイルミナの株式で行われた。株式現金化は市場で行われるので、グレイルの負担分は40億ドルである。現時点ではイルミナは大きな損失を出しているが、40億ドル以上で売却できればイルミナは利益がでる。

 

さてグレイルの価値だが、技術自体はそれほど難しいものではない。東大のゲノムグループならば朝飯前でつくれるだろう。DNAチップ研究所でも専念すれば1年位でセットアップできる。技術自体にはそれほど価値はないが技術以外のインフラの価値は大きいので多分10億ドル程度が適正ではないか、と考えている。それよりも興味があるのは、一体どの企業が買収するのか、ということだ。日本企業ならば、コニカミノルタのAmbry買収の二の舞いは避けてほしいものだ。