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夏の子守歌(フーゴー・ヴォルフ作曲、ロベルト・ライニック作詞) ~ フルトヴェングラーの伴奏

「ため息が出るほど美しい」と称される曲がある。私にとっては数曲あって、その一つがフーゴー・ヴォルフ Hugo Wolf(1860−1903)の「夏の子守歌」Wiegenlied im Sommer である。iPod Touchに音楽を入れて聴いているが、入れ替えずにずっと入れたままにしている曲の一つが「夏の子守歌」である。

フーゴー・ヴォルフは多くの歌曲(リート、lied)を作曲した。いわゆるクラシック音楽、19世紀の特にドイツ・オーストリア系の音楽は素材(メロディー等)を使って交響曲等の巨大な構築体をつくる点に特徴があるが、ヴォルフは巨大な構築体には興味がなく、素材の制作に終始した作曲家である。クラシック音楽史上素材制作を得意とした作曲家には、他にシューベルトとドヴォルザークがいるが、この二人は構築体制作も得意としていた。彼らとは逆で素材制作よりも構築体制作に力点をおいていたのが、ベートーヴェン、モーツアルト、バッハらである。

一方ロベルト・ライニックRobert Reinic(1805−1852)はあまり知られていない人で、ドイツ語版ウィキペディアによると画家で詩人だったらしい。シューマンのオペラの台本を書いたが、シューマンは気に入らなかったらしく書き直している。そのオペラはほとんど上演されず、私もシューマンがオペラをつくっていたことを今まで知らなかった(さすがに現在メディアが充実しており、彼のオペラ「ゲノフェーファ Genoveva」の日本語字幕付きブルーレイ・ディスクがでている)。

さて「夏の子守歌」だが、私の手元(正確にはハードディスク)には2つの録音がある。一つは往年の大ソプラノ歌手エリーザベト・シュヴァルツコップ Elisabeth Schwarzkopf(1915−2006)、伴奏はこれも往年のイギリスの名盤奏者ジェラルド・ムーア Gerald Moore(1899−1987)のもの。もう一つは、歌手は同じエリーザベト・シュヴァルツコップだが、伴奏は20世紀前半の大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー Wilhelm Furtwängler(1905−1954)のものである。ドイツ・オーストリア音楽は、19世紀では作曲(構築体制作)が中心であったが、20世紀前半には重点が19世紀に作曲された構築体の再生にシフトしていた。そのトップがフルトヴェングラーで、文字通りドイツ・オーストリア楽界の頂点に位置していた音楽家である。ナチスドイツに協力していたということで一時活動を停止させられていたが、再び活動をはじめており、この演奏は1953年のザルツブルグ音楽祭での録音である。これはフルトヴェングラーがシュヴァルツコップに申し出て実現したもので、「すべての演奏家にとって夢のような機会」だった、という。もともとはシュヴァルツコップの夫ウォルター・レッグ Walter Leggeが自分のために行った個人的な録音だったが、録音・内容ともよかったのでリリースされた。レッグがミラノ・スカラ座でのオペラ録音(カラスのトスカ)のため、聴くことができなかったことが幸いした。「ため息が出るほど美しい」のは、後者、フルトヴェングラー伴奏の方である。歌唱の録音は完全、ピアノはこもっていて、クレスハイム宮殿のリヒテルの平均律のような感じだが、雰囲気は十分伝わってくる。両方ともYouTubeで聴くことができる。

ムーア伴奏

https://www.youtube.com/watch?v=qpXG-a7tCoQ

フルトヴェングラー伴奏

https://www.youtube.com/watch?v=oNu9Eea2m2M

 

ライニックの歌詞は3節からなり、各節は3つの分節からなる。それぞれの第2分節を赤字で示した。まずドイツ語の原典。

第1節

Vom Berg hinabgestiegen

Ist nun des Tages Rest;

Mein Kind liegt in der Wiegen,

Die Vögel all' im Nest;

Nur ein ganz klein Singvögelein

Ruft weit daher im Dämmerschein:

“Gut' Nacht! gut' Nacht! Lieb' Kindlein,gute Nacht!

Gut' Nacht! gut' Nacht! Lieb' Kindlein,gute Nacht!”

 

第2節

Die Wiege geht im Gleise,

Die Uhr tickt hin und her,

Die Fliegen nur ganz leise

Sie summen noch daher.

Ihr Fliegen,laßt mein Kind in Ruh'!

Was summt ihr ihm so heimlich zu?

“Gut' Nacht! gut' Nacht! Lieb' Kindlein,gute Nacht!

Gut' Nacht! gut' Nacht! Lieb' Kindlein,gute Nacht!”

 

第3節

Der Vogel und die Sterne,

Und alle rings umher,

Sie haben mein Kind so gerne,

Die Engel noch viel mehr.

Sie decken's mit den Flügeln zu

Und singen leise: “Schlaf in Ruh!

“Gut' Nacht! gut' Nacht! Lieb' Kindlein,gute Nacht!

Gut' Nacht! gut' Nacht! Lieb' Kindlein,gute Nacht!”

 

つぎに日本語訳。

第1節

ようやく太陽は山から降りて沈もうとしている

私の子はゆりかごのなか、鳥達も巣に戻っている

ただ一羽だけがたそがれのなかで歌っている

「おやすみ、おやすみ、可愛い坊や、おやすみ!

おやすみ、おやすみ、可愛い坊や、おやすみ!」

 

第2節

ゆりかごは静かにゆれ、時計はゆっくり時を刻む

静かな部屋の中を小さな虫が飛ぶ

虫たちよ、私の子を起こさないで!

私の子に何を囁いているの?

「おやすみ、おやすみ、可愛い坊や、おやすみ!

おやすみ、おやすみ、可愛い坊や、おやすみ!」

 

第3節

鳥たちも星も、そしてすべてのものが私の子が大好き

そして天使も

天使は羽根で私の子を包み、静かに歌います「静かに眠りなさい!

おやすみ、おやすみ、可愛い坊や、おやすみ!

おやすみ、おやすみ、可愛い坊や、おやすみ!」

 

第1節では鳥が子守歌を歌い、第2節では虫がささやき、第3節は天使が歌いかける。原詩では第3節が、帰結であり焦点である。だがムーア伴奏では3つの節が単純に繰り返されるのみで、特に歌詞の内容は反映していない。これに対しフルトヴェングラー伴奏では、微妙にテンポが揺れ、特に第3節第2分節では進むに従って、テンポが遅くなる。そして、第2分節最後にピアノが一音響くのだ(YouTube3分18秒あたり)。この瞬間、時空間が揺らいだような感覚に襲われ、恍惚となる。西洋人なら天使が歌いかけた、と感じるのかもしれない。フルトヴェングラー伴奏では、この瞬間を中心に全体が構成されている。

一応各節各分節の演奏時間を測ってみた。正確に測っていないので1秒の誤差はあるかもしれないが、2秒狂うことはない。

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全体的にフルトヴェングラー伴奏の方が遅い。問題の第3節第2分節は他の分節よりも3秒長くなっている。体感ではなく実時間でも長かった。2つの演奏で共通して第2節第1分節が3秒程短い。これについてはよくわからない。

私の感性によるアプローチはここまでである。他にもフルトヴェングラー伴奏にはいろいろな工夫があると思うが、音楽家ではない私にはわからない。ただし、この演奏はフルトヴェングラー以外の人には、できなかった可能性が高い。ムーア伴奏の録音はフルトヴェングラー伴奏よりもずっとあとだが、シュヴァルツコップの歌唱は、フルトヴェングラー伴奏とは異なる平板なものになっている。フルトヴェングラー伴奏のほうがずっと良いので、できるなら、そのように演奏しているはずである。そうしなかったのは、平板な解釈を選択したのではなく、ムーアとでは再現できなかったのではないか、と考えている。

 

注1.翻訳はOxford Liederの英訳と藤野宏行氏(梅丘歌曲会館)の邦訳を参考にした。藤野宏行氏も本曲を「溜息ものの美しい子守歌」と云われている。

注2.本曲を聴いて「ため息が出るほど美しい」曲に興味を持たれた方は次の曲を試されたい。いずれも演奏者限定で、他の音楽家では同じ効果があるかどうかはわからない。

・シュミット:歌劇「ノートル・ダム」間奏曲。カラヤン指揮ベルリン・フィル「オペラ間奏曲集」の一曲。他の間奏曲も良い。EMIから別録音が出ているが、どちらかというとEMIのほうがよい。

・エルガー:ため息。バルビローリ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団。同じ演奏家のエルガーのエレジーとヴォーン・ウィリアムズのトマス・タリスの主題による変奏曲もよい。