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「Outer Wilds」はなぜあれほど独特なのか ― 操作の異質さと、古典的なSF性


『Outer Wilds』は高く評価されているゲームである。その理由も理解できる。時間ループ、惑星ごとの仕掛け、知識が進行になる構造、そして宇宙そのものを探索対象に据えた設計は、たしかに印象的だ。

しかし一方で、実際に遊んだ感触としては、世間的な持ち上げられ方に対して違和感を感じる部分もあった。とくにSFに関しては、しばしば「圧倒的に新しいもの」のように語られるが、私にはそこまで斬新には見えなかった。むしろ、使われているSFアイデア自体はかなり古典的であり、場合によっては陳腐ですらあると感じたのである。

ただ、本作に対して私が抱いたもっとも大きな引っかかりは、SF設定の古さそのものではない。むしろ決定的だったのは、操作の負担が大きく、その結果としてこの作品の本質的な面白さを十分に体験し切れなかったという感覚である。頭では「このゲームが何を面白がらせようとしているか」は分かる。しかし、その面白さの核心に没入する前に、移動や接近や姿勢制御といった段階で神経を削られてしまう。そのため、作品の中心にあるはずの知的な快楽へ、最後まで素直に乗り切れなかったのである。

『Outer Wilds』についてとくに印象に残った二点、すなわち操作方法の異質さと、古典的でやや陳腐にも見えるSF要素がどのように体験へ変換されているかについて、体験談として整理してみたい。そしてそのうえで、なぜ自分にとっては、その変換の妙を十全には味わえなかったのかを書いてみたい。

一般的な3Dゲームとはかなり違う操作感

まず強く感じたのは、この作品は単に「3Dゲーム」なのではなく、かなり特殊な身体感覚を要求するゲームだということである。

普通の3Dアクションや3D探索ゲームであれば、基本的には地面があり、上下の感覚が固定されており、「前へ進む」「止まる」「目標に近づく」といった行為が直感的に成立する。多少カメラ操作にクセがあっても、多くのゲームはその枠内に収まっている。

しかし『Outer Wilds』はそこから大きく外れている。宇宙空間や低重力環境を移動する以上、前後左右の移動だけでは足りない。慣性があり、自分の向きと進行方向がずれ、対象に近づくだけでも速度調整と姿勢制御が必要になる。うっかり加速しすぎれば通り過ぎ、止まるのも一苦労である。宇宙船に乗っていても、船外活動をしていても、「行きたい場所へ行く」という行為そのものが簡単ではない。

私にとってこの感覚はかなり異質であった。難しさの質が、敵の攻撃を避けるとか、素早く入力するといった通常のアクションゲームの難しさとは違う。むしろ、自分が今どちらへ流れていて、目標とどのような相対運動をしていて、どうすれば安全に接近できるのかを把握することの方が難しいのである。

このため、『Outer Wilds』のしんどさは「3Dゲームだから難しい」という話ではない。3Dそのものというより、無重力・慣性・姿勢制御を伴う立体的移動の難しさが独特なのである。ここは明らかに好みや適性が分かれる部分だと思う。

操作の異質さは、作品世界の演出でもある

もっとも、この独特な操作感は、単なる不便さとして片付けるには惜しい部分でもある。なぜなら、それが作品のテーマと強く結びついているからである。

『Outer Wilds』では、宇宙は人間に都合よく整えられた冒険の舞台ではない。プレイヤーは万能の英雄ではなく、小さな宇宙船でなんとか飛び回る存在にすぎない。その「宇宙の中での頼りなさ」が、移動の難しさとして身体に刻まれているのである。思い通りに動けないこと、接近するだけで神経を使うこと、着地すら安定しないこと。その一つ一つが、宇宙を気軽な背景ではなく、異物として感じさせる。

この意味で、操作のぎこちなさは本作において欠点であると同時に演出でもある。快適さを犠牲にしてでも、宇宙に放り出された感覚を優先している。その判断が合うかどうかは別として、少なくとも一貫はしている。

ただ、その演出は私には負担が大きかった

問題は、その演出意図を理解したうえでも、なお私には負担の方が強く感じられたことである。

本来このゲームが目指している面白さは、世界を観察し、情報同士を結びつけ、少しずつ宇宙の仕組みを理解していくところにあるのだと思う。時間ループも、惑星ごとの異変も、滅びた文明の痕跡も、すべてはプレイヤーの認識が更新される快感へ収束していくよう設計されている。その構造自体はよく分かるし、実際に優れているとも思う。

しかし私の場合、そこへ到達するまでの移動や接近の負荷が無視できなかった。何かを調べたい、あそこへ行きたい、もう一度あの場所を確かめたいと思っても、その都度まず操作上のハードルを越えなければならない。その一手前で集中力が削られてしまうため、知的好奇心が素直に前へ出てこないのである。

要するに、「面白さが分からない」のではない。面白さがあることは分かるのだが、そこに没入するための身体的コストが高く、その恩恵を十全に受け取れなかったのである。ここが、本作に対する私の感想をもっともよく表している気がする。

SFアイデア自体は、かなり古典的である

そのうえでSFとして見たとき、強く感じたのは「これはそこまで新しくない」ということであった。

本作で中核となる要素を挙げれば、時間ループ、滅びた文明の痕跡、宇宙的スケールの謎、観測と知識による理解、そして終末をめぐる感覚である。どれもSFでは定番中の定番である。悪く言えば、かなり手垢がついている。時間ループなど、もはや現代のフィクションでは頻出の仕掛けであり、これだけで新規性を語るのは難しい。古代文明の遺跡をたどって宇宙的真実に迫るという筋立ても、SFの読者や観客にとっては驚くほど珍しいものではない。

むしろ本作をSFとして持ち上げすぎると、そこで使われている発想の古典性がかえって目立つ。宇宙の不思議、滅びの気配、知ることそのものの価値、時間の反復、観測者としての主体。どれも由緒正しいSFの主題であり、それゆえに正面から扱うと、かなり「見たことのある話」になりやすいのである。

自分が陳腐さを感じたのはこの点であった。これは別に、本作が雑だとか浅いという意味ではない。ただ、そこで扱われているアイデア自体は、少なくともSFにそれなりに触れてきた人間からすると、驚くほど斬新ではない。むしろかなり保守的で、古典的な感触すらある。

では何が評価されているのか――発想ではなく体験への変換である

それでも『Outer Wilds』が強く記憶に残るのは、SFアイデアそのものが新しいからではない。古典的なアイデアを、ゲーム体験としてうまく再構成しているからである。

本作では、プレイヤーが何かを知ることが、そのまま進行になる。キャラクターのレベルが上がるわけでも、新装備を獲得するわけでもない。プレイヤー自身が「どういう世界なのか」を理解することだけが前進である。この構造によって、ありがちなSF設定が単なる背景説明で終わらず、実際のプレイの中核に据えられる。

たとえば時間ループも、物語上の仕掛けに留まっていない。一定時間ごとに世界が巻き戻ることで、プレイヤーは一回ごとの行動を調査単位として扱うようになる。今回はこの惑星のこのタイミングを見る、次は別の地点を先に調べる、といった具合に、探索が観察と仮説検証の形を取る。ここにはたしかに知的な面白さがある。

クラゲの場面も同様である。多少のネタバレを許容して言えば、あれはSFとしてとくべつ斬新な生物表現というより、「この世界にあるものを、観察と理解によって利用可能なものへ変える」体験の一例として機能している。要するに、アイデア単体がすごいのではなく、その場でプレイヤーが納得するかたちで世界の理に参加させることがうまいのである。

しかし、私はその変換の妙を十分には味わえなかった

ここで改めて痛感するのは、本作の長所として語られるこの「体験への変換」を、私はたしかに認識しつつも、十分には享受できなかったということである。

もし操作がもっと自然に感じられていたなら、私はこのゲームをかなり違ったものとして受け取ったかもしれない。古典的なSFアイデアであっても、それが探索と発見の手触りに結びついていけば、新鮮な感動に変わりうるからである。しかし実際には、その一歩手前で移動と制御の負担が立ち上がってきてしまう。すると、知識が世界を開く快感よりも、そこへ至るまでの疲労感の方が前面に出てしまう。

言い換えれば、私にとって『Outer Wilds』は、本質的な面白さが見えているのに、それを存分に味わうだけの快適さが伴わなかった作品であった。これは単なる「難しかった」という話ではない。ゲームが提供しようとしている知的興奮や宇宙的感覚の存在は理解できる。だが、その入口である操作が重かったため、私の体験は常に少し引いた位置に留まってしまったのである。

面白さと古さと負担が同居している作品である

結局のところ、『Outer Wilds』は非常に独特なゲームである。ただし、その独特さは、アイデアの新奇さだけで成立しているわけではない。操作は明らかに特殊であり、無重力・慣性・姿勢制御を伴う移動は、人によってかなり強い負荷になるだろう。私にとっても、ここは最後まで楽とは言えなかった。

一方で、SF的内容を見れば、そこで使われている発想はかなり古典的である。時間ループ、滅びた文明、宇宙的終末、観測と知識。どれもSFの歴史の中では珍しくない。そこに新しいアイデアの爆発があるわけではなく、場合によってはかなり陳腐に見える。にもかかわらず本作が印象に残るのは、その古典的要素をゲームの構造と操作感に結びつけ、プレイヤー自身の体験へ変えているからである。

ただ、私に関して言えば、その変換の妙を十分に受け取ることはできなかった。面白さの核が見えなかったわけではない。むしろ見えていたからこそ、それを味わい切れなかったことが惜しまれる。『Outer Wilds』とは、SFとしては古典的で、ときに陳腐ですらある発想を、体験としては妙に忘れがたいものへ変換したゲームであり、同時に私にとっては、その本質的な面白さは理解できるが、操作の負担のために最後まで十分には浸り切れなかったゲームなのである。